カルマ、日本語で言うと業です。辞書によると「前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。」とあります。なので、一般的には、悪いことすると、次に生まれ変わった時に、その報いが自分に返ってくる、例えば、前世で盗んだ人は今世で盗まれる立場になるとか前世で裏切った人は今世で裏切られる、みたいに思われています。なんとなく天の神様に与えられる罰だと考えてる人も多いと思います。でも、実際にはそんなに単純でもなく、また誰かに与えられるものではないようです。カルマ(業)は前世の自分の行為のバランスを取るために自分に課した義務みたいなもののようです。
さて、カルマについて考えさせられる今回の話は前回書いたアンコールワットの過去生からつながる過去生です。
まずは、過去生リーディングの記録から。
ビジョン:
南の島?浜辺のようだ。
黒色のスカル。石なのか木製なのか、はたまた本物の人骨なのかは判然としない。
褐色の肌の男性たちが呪術的な踊りを踊っている。焚き火を囲って。
マダガスカルだ
さて、私の過去生はどこにいる?踊っている男性の一人なのか?いや、違うらしい。
幼い少女だ。スカルを使って、神と繋がる巫女のような存在。生贄だ。しかも最後には食べられてる。
理解:
この過去生の経験からスピリチュアルな能力が発現して知られるのを恐れている。だから積極的にアピールできない。
このマダガスカルでの人生はアンコールワットで生贄の少女たちを助けられなかった、見捨てた自分に与えた罰(カルマ)である。
ガイドからのメッセージ:
いつまでも傷にしがみついてないで、自分を癒して自己愛を取り戻しなさい。
レトリーバルは必要
なかなかエグい過去生です。前回の記事でアンコールワットにいた女性は生贄の少女を見捨てたことに罪悪感を持ったという話を書きましたが、その罪悪感がカルマを作って後の輪廻で現れたという構図です。
さて、レトリーバルが必要ということだったので、翌日早速、レトリーバルを行いました。モーエンさんの『死後探索マニュアル』CDの中から「特定の人を訪問するエクササイズ」を使用しました。
マダガスカルで生贄となった過去生の意識を訪問すると意図する。
ヘルパーは優しげな女性、女神っぽい雰囲気。F23へ移動。
薮のようなところに到着。人の気配が感じられないので、少し移動する。祭壇のようなものが設られている。その上に座っているような…。祭壇は大きなひな壇になっている。華やかに飾り付けられていて、供物や花などが乗せられている。その最上段に少女がいるんだろうなと感じる。とりあえず、話しかける。
「何してるの?」
「食べられるのを待ってる」
「どうして?」「ここにいたいの?」「本当はどうしたいの?」など質問するが、パッとした答えは返ってこない。
「食べられたらあなたはどうなるの?」
「みんなの一部になる。わかんない」
特に怖いとか嫌だとかなく、ただそういうもんだと思っている感じ。神と繋がる力が自分にはあるから、そういう運命なんだと受け入れているようだ。あんまり本音(感情)が出ない。ここから連れ出そうにも、これではらちがあかないので話題を変えてみる。
「誰か会いたい人はいる?」
「おばあちゃん」(よっしゃ!)
「あのねぇ、おばちゃんは魔法使いなんだよ。魔法使いだけど、食べられてないし、自由だよ。好きなことできるよ。ほら見て!」
魔法使いっぽい感じで、ジャジャーンとやってみせる。と、おばあちゃん役のヘルパーが登場する。(素晴らしい連携プレイ)
おばあちゃんの登場で、ここを離れる気が湧いてきたようだ。
「魔法使いだから空飛べるんだよ」と言って、少女を真ん中にしてヘルパーと3人で手をつないで飛び上がる。なぜか少女は飛行中もあぐらをかいている脚がそのままだったので、「足伸ばして!」と言う。
やがて、森の中っぽいところに着地。家があったがうまくイメージできずになんかヨーロッパ風の木の家になっていた。中には両親と兄弟(彼らは本当は引き継ぎヘルパーだ)がいて、母親が「帰ってきてくれて嬉しい!」と言いながら抱き締めていた。母親は少女のことを「アニ」と呼んでいた。引き継ぎヘルパーに無事引き渡せたようなので、ヘルパーと外へ。
「うまくイメージできません」と泣き言を言ってみた。
「どのみち、イメージ(空想)の世界なんだから、どうイメージしようと構わない。救出できればいいのよ」「もう誰かのために犠牲になる必要はない。自分の力は自分のために使いなさい。大丈夫だから頑張りなさい」的なことを言ってくれた。
C1へ
アンコールワットにいた女性は生贄となる少女たちを助けられなかったことに罪悪感を抱いていました。なので、今度は自分が生贄になる人生を体験すると自分で決めたようです。これは自分に与えた罰という意味です。
魂には自分が関わった相手の立場を体験するという法則がそもそもあるのかもしれません。ただ、カルマは経験のバランスを取るためにあるとしても、それはかなり主観的なバランスのような気がします。
どういうことかというと、前回のアンコールワットの女性は決して少女たちを死に追い込んだ張本人ではありません。生贄制度を決めたわけでも、手を下したわけでもありません。どうすることもできなかっただけの人です。なのに、次はガッツリ自分が生贄になると決めたのは、やはり、罪悪感の強さのせいだと思われるのです。
ちなみに、私は生贄になった過去生がこのマダガスカルだけではありません。複数の過去生で社会や属するコミュニティのために犠牲になる「個」という立場を経験しています。どうも罪悪感を強く感じれば感じるほどカルマはより重くなっていくのではないでしょうか。
過剰な罪悪感は手放しましょう、贖罪は生きてるうちに済ませましょう、と強く思います。なんか、世の中には過剰に罪悪感を持つことってあるでしょう。いやいや、あなたは悪くないよ!自分を責めないで!と思うような話を聞くことってありますよね。本当、持たないで罪悪感。カルマになっちゃうから。
カルマの仕組みは複雑です。もし、これはカルマなんだろうか?と思うことがあったら、自分を許せてないことがあるのかもしれません。
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